2011年05月02日

秘儀宗教としてのイエスとキリスト教

「死して復活する神」というキリスト教のイエス像は、ユダヤ的伝統からだけでは生れ難いもので、そこにはオリエント・ギリシャの秘儀宗教からの影響もありました。
キリスト教は信仰だけではなく、「洗礼」と「聖餐」という秘儀(秘跡)を行うことによって救われると考えました。
また、一部の秘教的なキリスト教では、他にもこの2つ以上に重要な秘儀があったようです。
「塗油」、「洗足」、「聖婚(花嫁の部屋)」、「救済」などです。
これらの秘儀には秘儀宗教の大きな影響があります。


キリスト教の水を振り掛ける儀式である「洗礼」の背景には秘儀宗教の影響を考えることができます。
ゾロアスター教の影響を受けたユダヤ教のクムラン教団は、水槽に浸かる毎日の沐浴を行っていました。
洗礼者ヨハネは川の流水に浸かる一度きりの洗礼を行っていました。
ユダヤ的に考えれば、これらはノアのように洪水を生き延びて浄化されることを意味するのでしょう。
ですが、流水に浸かる一度きりの洗礼というあり方は、秘儀宗教の方法と同じなのです。
また、洗礼者ヨハネを崇拝するグノーシス主義的なマンダ教は、流水に浸かる毎日の沐浴を現在まで行っています。


パンとワインの「聖餐」は、直接的にはゾロアスター教からクムラン教団にいたる流れを受け継いでいるかもしれません。
その本来の意味は、終末時に永遠の生命を得る饗宴の先取り的な儀式です。
ですが、パンとワインをイエスの肉と血と見なすという見方は秘儀宗教の発想です。
その本質は、キリストへの一体化、キリストの受難の追体験であって、教会はミサでパンとワインを神に捧げますが、これによって教会はキリストと一体化して供犠を繰り返しています。
パウロによれば、教会は失われたキリストの「体」、あるいは「花嫁」なのです。


福音書を秘儀宗教の知識を持って読むと、そこに秘儀宗教の影響を読み取ることができます。


細かい違いはありますが、正典福音書ではベタニアのマリアがイエスに「頭に注油」、もしくは「足に塗油」します。
男性の弟子達はこれらの行為の意味を理解できませんが、イエスはこれが「埋葬の準備」としての重要な行為であると述べます。


ユダヤ語の「メシア」とギリシャ語の「キリスト」は「注油(塗油)された者」という意味です。
ユダヤの伝統では「(頭に)注油された者」とは通常、「王(司祭)」を意味し、場合によっては「預言者」や「賢者」をも意味します。
注油する者は一介の女性などではなく、神、あるいは神に近い存在です。
これは「埋葬の準備」とは関係ありません。


一方、足への「塗油」はユダヤにおいても埋葬の習慣です。
ですが、ベタニアのマリアはイエスが生きているうちにその隠された意味を理解しながらこれを行っていたのです。
「塗油」はエジプトでは復活への呪術であって、イシス女神がオシリス神を復活させた神話に由来します。
また、「塗油」はオリエントの女神に仕えその分身となる神殿付属の「聖娼」が、「聖婚の儀礼(性的儀礼)」の時に行う行為です。


つまり、イエスをめぐる「注油」や「塗油」の背景には、女性が司祭的な役割を行う秘儀の観念、エジプトの秘儀宗教や「聖婚」の観念があるのではないでしょうか。


また、正典福音書では、男性の弟子ではなくマグダラのマリアら数人の女性だけがイエスの十字架上の死と埋葬(塗油)に立ち会います。
そして、彼女は復活したイエスを最初に目撃します。
これらはベタニアのマリアの「塗油」と一連の意味を持っています。
ベタニアとマグダラの2人のマリアは同一人物という説もあります。
つまり、マリア達はイシスやネフティスらエジプトの女神がオシリスに対して行った(死と)復活を司る秘儀的な女性司祭の役割をイエスに対して行っていたと推測できるのです。


『マルコ福音書』では「白衣の若者」、『マタイ福音書』では「白衣の天使」、『ルカ福音書』では「輝く衣の2人」、『ヨハネ福音書』では「白衣の2人の天使」が墓場のイエスの側に登場します。
秘儀宗教的な解釈では、最初の「白衣の天使(若者)」は復活した神、霊魂の本来的な神性の象徴で、「若者(子供)」というのは多くのオリエントの秘儀宗教の神の性質と共通します。


エジプトの文脈では復活するのはオシリス神ですが、イシスとネフティスという2人の女神が死者の頭側と足側に立ち、死者は彼女らによってオシリスとして復活します。
『ヨハネ福音書』の2人の天使もイエスの遺体の頭側と足側に立ちます。
「ルカ福音書」と『ヨハネ福音書』に登場する2人(の天使)の本来の意味は、女性司祭の役割を果たした「マグダラのマリア」ら2人の女性に降りた女神イシスとネフティスであったはずです。


秘教的な側面を持つ当時の宗教が一般信者と一部の秘儀伝授を受けたインナー・サークルの弟子達を分けていたように、イエスの弟子達にもインナー・サークルが存在したのかもしれません。
福音書から想像するとそのメンバーは、マグダラのマリアやベタニアのマリア、そしてサロメ、ラザロ(彼はベタニアのマリアの弟で、『ヨハネ福音書』ではイエスによって生き返らされたことになっていますが、実際はイニシエーション的な秘儀を受けたのかもしれません)、トマスらであって、決してペテロやヤコブやマタイなどのキリスト教教会が権威の源泉とした人物や正典福音書の著者達ではありません。


おそらく正典福音書の著者達も、彼女達の行ったことの意味を十分に理解していないか、それを明記したくなかったのでしょう。
なぜなら、ユダヤ教にも正統派キリスト教にも女性蔑視の思想があるからです。
ですが、彼女達の行なったことを否定したり、無視することはできない状況だったのでしょう。


つまり、もしイエスの教団にインナー・サークルがあったとしたら、イエスの十字架上の死と復活の一連のストーリーは、イエスとインナー・サークルの弟子達が仕組んだもので、これはオリエント秘儀宗教の死と復活の儀式を、公開して行うものだったのでしょう。
インナー・サークルはなかったとしても、少なくともイエスに対してこのような秘儀宗教的な解釈を行った人々はいたのです。


イエスが秘儀宗教的な思想を持っていたとしたら、イエスと女性達は「聖婚」の秘儀を行っていたかもしれません。
ヘレニズム期の女神の神殿には「聖娼」と呼ばれる女性司祭がいて、男性信者と性的な儀式を行うことによって女神の神性を男性信者に与えてイニシエーションを施したのです。


この「聖娼」の時、聖娼は男性信者に「塗油」を行っていました。
秘儀宗教の論理では、「聖婚」の儀式は神的な女性原理が霊魂の本来的な神性の復活を司るという意味となります。
つまり、イエスに対してマグダラのマリアらが行った死と復活の秘儀としての「塗油」は、「聖婚」と等価なのです。
正典からはずされた『トマス福音書』ではサロメが、『フィリポ福音書』や『マリア福音書』ではマグダラのマリアが、イエスの性的パートナーであるとほのめかされています。
これは世俗的な意味ではなくて、性的儀礼もしくは、霊的・象徴的な意味でしょう。


イエスの最も正統な後継者・使徒であったかもしれないマグダラのマリアは、女性蔑視を続ける正統キリスト教会から逃れて、南フランス地方へと伝道したという伝説があります。
マグダラのマリアを信仰する一派は実在しましたが、彼らは地下に潜って表面上はキリスト教を装いました。
ですが、この派は黒い聖母マリア像を持つという特徴を持っています。この黒い聖母マリアは、女性司祭としてのマグダラのマリアの神性を受け継いでいるのです。

posted by morfo at 23:55| Comment(0) | 堕落・救済神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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