2011年05月02日

正統派キリスト教のイエス

キリスト教の神話にも、「堕落・救済神話」や秘儀宗教の影響を受けた部分があります。


キリスト教は実在したであろう人物であるイエスに由来しますが、イエスがどのような思想を持っていたか、どのような人生を生きたか、確かなことはほとんど分かっていません。
しかし、バートン・L・マックらによる聖書学の厳密な研究による説が最も有力であると思います。
それによれば、イエスその人の思想は、ギリシャ哲学の一派のキュニコス派の思想に近いものです。
その思想は、一切の社会的な因習などを否定して、必要最小限の生活をするというもので、宗教的な側面はほとんどありませんでした。


しかし、イエスの死後、様々な地域、様々な時代に、様々な人々によって作られたイエス像が結びつけられ、キリスト教が生まれました。
ユダヤ教の神話・叙事詩を曲解し、イエスの神話とイエスの教えを広めたとされる使徒の神話に結びつけることで、キリスト教が生まれたのです。


正統派キリスト教の神話は、4つの福音書、『ヨハネ黙示録』、『パウロの手紙』などをもとに作られた、次のようなものです。
まずは、過去に起こった出来事として神話です。


イエスは「神の一人子」あるいは「言葉(ロゴス)」と呼ばれる神的存在です。
イエスは聖霊と処女によって原罪を持たない存在として地上に受肉して降下します。
イエスは様々な「癒しの奇跡」などを行います。
イエスは「預言者」として神による「審判の告知」を行います。
そして、迫害を受けて、人々の罪(アダム以来の原罪)の「あがない」のために死にます。
イエスは「復活」して父なる神の元に「昇天」します。
イエスはこのあがないによって、モーゼのもたらした律法に代わる新たな愛の契約を、ユダヤ人以外の人間にももたらします。


次は未来の出来事として預言された神話です。


イエスは父なる神をして正しい人々に「救いの霊」、「真理の霊」である聖霊を送ります。
イエスはやがて白馬の乗った騎士の姿のメシアとして再来し、天使と共に悪魔や悪の王国を一時的に撃退して1000年間の神聖な統治(千年王国)を行います。
その後、悪魔達が復活しますが、神の軍勢と天の火によって最終的に撃退されます。
イエスは人々を裁き(最後の審判)、悪人は火の池に投げ込まれます。
天地は消え去って新しい天地が生れて、「新しいエルサレム(神の国)」が花嫁のように着飾って天から降りてきます。
そこには生命の水が流れる川があり、生命の樹が生えています。
すべての正しい人々は浄化された肉体で復活してここで永遠の生を得ます。
イエスは「人の子」としてこの神の国を神と共に統治する存在です。


イエスは「メシア」=「キリスト」とされました。
このギリシャ語の「キリスト」と、ユダヤ語の「メシア」は、直接的には「油を注がれた者」という意味です。
ユダヤの伝統では「王」、「預言者」などを指しますが、特に「征服者からイスラエルを解放して繁栄を与える王」を意味し、特別な意味を込めて「神の子」とも呼ばれます。
イエスを指す「キリスト」は、キリスト教独自のより複雑な意味を持ちます。


イエス=キリストの神話には様々な神話的人物像が合成されています。
旧約聖書で言えば、「列王記(昇天した預言者エリア)」、『イザヤ書(メシア、あがないのため苦難を受ける僕=小羊、癒しを行う者、神の審判を告知する預言者)』、『ヨナ書(あがないのため3日間魚に飲まれて解放された者)』、『ダニエル書(終末に神の国を受け継ぐ「人の子」)」、「知恵文学(知恵、知恵の子)」などを背景にしています。
ですが、複雑に合成されたこのキリストとしてのイエス像は、ユダヤ人にとっても理解し難いものでした。
また、イエスの処女懐胎や、終末論には多くの点でゾロアスター教の神話の影響があります。


イエス・キリストの神話の中の「死して復活する救済の神」という側面は、ユダヤの伝統ではなく、オリエント・ギリシャの秘儀神話の本質と重なります。
秘儀宗教では神の死は霊魂の本来的な神性の地上性への埋没を、神の復活はその地上的な意識の死と神性の復活を象徴します。
そして、その追体験は霊的な人格への変容を促して救済となります。


ですが、キリスト教ではイエスの死は人間の原罪をあがなうもので、イエスの復活は人間の終末の復活の先取り、あるいはその保証という意味を持ちます。
キリスト教は、イエスのあがないの死と復活を近い過去の歴史的な事実を信じて、教会に加わることで救われるとしました。
イエスの原罪のあがないは、宇宙と人間の堕落の回復への一つの区切りを意味するわけで、完全な回復は、終末において浄化した体の復活と同時に達成されます。
ですから、秘儀宗教のように、人間の霊魂が死後に身体を脱ぎ捨てて神の世界に復帰するわけでもなければ、現世において人間が霊魂の神性を取り戻すわけでもありません。


イエスの「あがないの死と復活」は、秘儀宗教のようなイニシエーション的な意味を持つものではありません。
そうではなく、原始的な「供犠」、つまり小羊に代表される動・植物やシャーマン自身を供える「供犠」の論理に近いものです。
神に供犠を供えることは、無意識的なレベルでは意識が利他的に無意識的なもののために働くことを象徴します。
イエスの死も無意識のレベルでは旧約の原罪、つまり意識の発生に対して、それを否定してあがなうことになりえるのです。
ですが、通常の供犠は常に捧げ続ける必要があるのに対して、イエスの供犠は一度で原罪をあがなってしまう宇宙的な出来事だというのです。


秘儀宗教やプラトン主義、ヘルメス主義、グノーシス主義が、個人が霊魂の内部に神性を見い出すという認識による救済の重点を置いています。
これに対して、キリスト教は神話化されたイエス・キリストを歴史的事実と信じて教会に加わることで救われるという信仰の点に救済の重点を置いています。
キリスト教は個人の霊魂や自然などの神性を否定したために、個人が直接的に霊的なものを体験する可能性を閉ざしました。
さらに言えば、キリスト教はゾロアスター教とも違います。
ゾロアスター教では、人は信仰よりも善を行うこと自体に救済の重点が置かれているからです。


キリスト教はローマの国教となってからは、他の宗教、つまり、秘儀宗教やオリエント・ギリシャの神学を徹底的に弾圧して葬り去りました。
これらは、多くは古代からの知識を継承する知識人によって担われていたものです。
ヘルメス主義や新プラトン主義に代表されるこういった古代神学や神秘哲学は、イスラム世界に受け継がれて、ヨーロッパにはルネサンス期に復活します。


また、キリスト教は女性の神性を否定したので、多くの女神信仰は歴史の暗部に隠れました。
聖母マリアは後世に神性を認められるようになりましたが、ソフィアのような至高神に近い霊知的な神性を持ちませんし、地母神のような大地性・豊穰性・暗黒性などの側面もまったく持っていません。
ですが、聖母マリアの像の中には「黒い聖母像」と呼ばれる全身が黒色でできた像がたくさんありあます。
これらは、キュベレやイシス、アルテミスなどの信仰が盛んだった場所にあるので、こういった異教の女神が姿を変えて生きのびたものでしょう。

posted by morfo at 23:44| Comment(0) | 堕落・救済神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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