2013年02月18日

死すべき運命と不死の探究

「不死探求の神話」の節では、まず、人間が死すべき運命となったことを説明する神話を見ます。
次に、不死性を探究した神話を見てみましょう。
この不死性の探究こそが神秘主義の目的だと言うことができます。

不死を獲得する物語は、心理的には無意識の創造的な統合や、それと結びついた意識的な自由な価値創造を表現していると解釈することができます。
その意味では不死の探究は成熟のプロセスと区別されるものではなくて、その延長上にあるものです。
ですが、この節では、多くの秘儀宗教や神秘主義者がそうであったように、あくまでもこれを言葉通りに受け取って、実際の不死性の獲得の物語として扱います。
ただ、不死性の獲得というのは、不老不死ではなくて、肉体の死後に神々の至福の世界に仲間入りしてそこに留まることを意味します。
一般的に、人間は死後、居心地のよくない冥界に行ったり、輪廻して再生すると考えられていました。
ですが、偉業をなしとげた英雄的な人間は死後の祝福を得られると考えられたのです。


人間の「死すべき運命」と「不死の獲得」は別のテーマながら関係しています。
これは旧約聖書では、人間が「智恵の樹の実」を食べてしまったことと、人間が「生命の樹の実」を食べることを神が恐れたこととして語られます。
この神話に関しては後の節で解釈しましょう。

多くの神話によれば人間が死すべき運命となったのは、文化の発生、つまり、智恵や言葉、性別、労働(農耕)の発生と同時です。
これは「楽園喪失」、「天の上昇」といったテーマ、あるいは神人や動物などの原初的な「殺害」のテーマと関連して語られます。
この物語は、言語的な秩序によって意識的な自我を獲得して、意識と無意識が分離したこと、全体性が失われたことを表現しています。
これを引き起こした出来事、根本的な原因は「智恵の樹の実」を食べたとか様々に語られますが、ほとんどは、先に書いた様々な事項の発生を象徴的に示すものにすぎません。

部族社会の神話では、人間の不死の探究はほとんどが失敗に終わり、結果的にこれは人間の死すべき運命を語っているに過ぎません。
ですが、国家社会以降の神話では、不死を獲得した英雄の神話を語ることがあります。
そして、人間が死すべき運命となった理由についても、より直接的な答えを出しています。
多くの場合その理由は、たとえ人間が不死を望んでいたとしても、不死なものと取り違えて可死なもの、つまり物質的なものを選んでしまったからです。
最も素朴な形では、神からもらった石を返して代わりにバナナを食べてしまったから、といったものです。
この答えは、不死なるもの、つまり生命の樹の実を食べる可能性を示唆しています。
この発想は、輪廻の原因を無知とするインド思想にもつながります。

posted by morfo at 13:13| Comment(0) | 不死探求の神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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