2021年02月04日

はじめに(目次)

人の心は死ぬまで自然に成長し続けます。

子供から大人になり、さらにスピリチュアルな探究に進みます。

人の心の成長を表現し、促すような特別な神話や物語があります。

そんな特別な神話や物語、そしてそれを体験する秘儀を紹介し、解釈します。

神秘主義思想に精通した者でしかできない解釈を行います。


取り上げる神話は、主に「不死探究の神話」と「秘儀神話」、「救済神話」、そして「秘儀的神話(物語)」です。


「不死探究」というのは、人間が神と等しくなるほどの完成を目指すものです。

ですから、その前に、まず人間の「成人」や「成熟」を語る神話や童話を見てから「不死探究」の神話に進みましょう。


紀元前後の数世紀に、神の死と再生というテーマを含んだ神話をもとにして、その演劇的再現やイニシエーション(秘儀伝授)を行う「秘儀宗教」と呼ばれる形の宗教が力を持っていました。

このブログでは、「秘儀宗教」が元にしている神話を「秘儀神話」と呼びます。

「秘儀神話」は地上に捕らわれた神的な人間の霊魂がそこから解放される姿を描いていると、「秘儀宗教」は解釈しました。

「秘儀神話」は、原始的な自然の豊穰をテーマにした神話を変形したり再解釈して生まれたものですので、まず、「豊穰の神話」を見てから「秘儀神話」に進みましょう。


一方、「救済神話」は、直接に人間や神的霊魂の天上からの堕落と、その復帰を語る神話です。

この復帰は、宇宙論的には終末論という形をとります。


以上で扱う神話は、主に、東西文化の交流が活発に行われて古代から現代につながる世界史を作ってきた、古代オリエント、ギリシャ、ヘレニズム、ローマ期のものです。


また、最後に、番外編としていくつの「秘儀的物語」を紹介します。

これは、性質的には上記のものと重なりますが、定義やカテゴライズをせず、また、解釈をせずにに紹介します。

こちらはヨーロッパやペルシャ、アメリカ大陸、インドなどのものです。


==目次==


■成長と成熟の儀礼・物語

成人のイニシエーション ・成人の英雄物語 ・成人の童話

成熟のイニシエーション ・成熟の英雄神話 ・成熟の童話

古事記における天孫族と国津神のイニシエーション

成女イニシエーション物語としての「千と千尋の神隠し」


■不死探究の神話

死すべき運命と不死の探究

プロメテウス神話

テシュプとイルルヤンカシュの神話

ヘラクレス神話

ギルガメッシュ神話:物語編 ・ギルガメッシュ神話:解釈編


■豊穰と循環の神話

豊穰の神話

豊穣神話の4つの神

豊穰神と不毛神の永遠の戦い

死して再生する生物の守護神

女神を殺害して変容させる男神

古代エジプトの神々と季節循環


■秘儀神話と秘儀宗教

秘儀宗教とは

神話の秘儀的解釈

アッティス=キュベレ神話 ・キュベレと秘儀

小ディオニュソス神話 ・ディオニュソス神話解釈 ・ディオニュソス秘儀

ペルセポネー神話 ・ペルセポネー神話解釈

エレウシス秘儀 ・エレウシス秘儀解釈

大ディオニュソス神話 ・オルペウス神話 ・オルペウス秘儀

イシス=オシリス神話 ・イシス=オシリス神話解釈 

古代エジプトのコスモロジーと死後観 ・イシス=オシリス秘儀


■堕落・救済神話

堕落・救済神話とは

原人間アントロポス

ゾロアスター教とガヤ・マルタンの殺害

ユダヤ教創世記とアダムとエヴァの堕落 ・ユダヤ教のヘレニズム化と女性原理の堕落

ヘルメス主義とアントロポスの堕落

グノーシス主義とソフィアの堕落 ・プトレマイオス派の堕落・救済神話

正統派キリスト教のイエス ・秘儀宗教としてのイエスとキリスト教

ミスラ教と原人間の殺害 ・マニ教とオフルマズドの犠牲


■番外編(秘儀的物語)

スペイン童話「白い鸚鵡」

アッタール「鳥の会議」

マヤ神話「フンアフブーとイシュバランケー(ポポル・ヴフ)」

ナーローパの生涯

ゲーテ「メルヒェン」とシュタイナーの解釈(姉妹サイトへ)

ノヴァーリス「クリングゾールのメルヒェン」(姉妹サイトへ)

知恵を獲得する英雄、不死を探求する英雄 (姉妹サイトへ)


*姉妹サイト「世界の瞑想法」、「仏教の修行体系」、「夢見の技術」、「神秘主義思想史」,「シャーマンと伝達文化の智恵の道」、「九州王朝論の比較」、「萩尾望都の諸作品のテーマと継承」、「死と供養」もご参照ください。

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成女イニシエーション物語としての「千と千尋の神隠し」

ジブリ映画「千と千尋の神隠し」を成女イニシエーション物語としての観点から解釈します。

「千と千尋の神隠し」という作品の全体的な解釈ではありません。
また、監督の宮崎駿の意図の解釈でもありません。

「千と千尋の神隠し」という作品と、アフリカ、アジア、アメリカ・インディアンなどの伝統的な部族社会の成人・成女イニシエーション儀礼や、その名残を残したヨーロッパの童話との共通点をまとめるものです。


<物語の始まり>

成人・成女イニシエーション儀礼(以下「儀礼」と表記)は、少年・少女が両親から離されて、擬死して「死」の領域である森の中に入っていくことから始まります。

成人・成女イニシエーション童話(以下「童話」と表記)では、物語の始めの設定は、両親、あるいは、主人公と同性の親が、なんらかの理由で不在である、もしくは、問題をかかえています。
例えば、定番の設定では、母親が意地悪な義理の母です。

この欠如しているものは、物語で主人公が獲得すべき目標、つまり、大人の人格を示します。

「千と千尋の神隠し」(以下「映画」と表記)の物語は、主人公である千尋の家族が引っ越しで新しい住まいに向かう中で始まります。
これは、一種のイニシエーション、つまり、人生の「移行期」を示しています。

家族は、道を間違い、トンネルを通って「異世界」に入ってしまいます。
この異世界は、捨てられた銭湯のテーマパークで、もともとは神社・神域だったという設定です。
つまり、神社に参拝する前に穢を払う湯屋がもとになっています。
そして、ここには、妖怪の類が住み着いています。

まず、両親はこの異界の食べ物を食べて、豚になってしまいます。
こうして、両親の欠如、両親からの分離が発生します。
ただ、冥界の食べ物を食べる、動物になるというテーマは、イニシエーション特有のテーマではありません。

千尋は、豚になった両親を救おうとしますが、両親を救うことは、自分が目標としての大人になることで達成されます。


成女イニシエーション儀礼は、初潮をきっかけとして始めます。
童話では、「赤」が初潮の象徴となります。
「赤ずきんちゃん」の「赤」がその例です。

映画では、トンネルは、入る時には赤いモルタル製ですが、出てきた時は通常の色の石作りです。

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また、千尋が湯屋で働く時に着る服の色も赤です。

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<小屋と主宰者>

儀礼や童話では、森の中に小屋などがあり、ここがイニシエーションの中心の場所になります。
そこには、イニシエーションを司る者がいます。

儀礼では、イニシエーションの主宰者は、部族の大人が扮する先祖霊や異形の精霊的存在です。
童話「ヘンデルとグレーテル」では、お菓子でできた家があり、そこに魔女がいます。

映画では、湯婆婆が仕切る油屋という温泉宿が舞台です。

温泉宿は、癒しの場所であり、資本主義社会の一つの典型である風俗業の場所です。
成女イニシエーションのテーマとの関係で言えば、「利他心(一般には男性を助ける)」と「女性の仕事の技術」を獲得する場所という共通性があります。
例えば、童話「眠り姫」は、紡ぎ車の錘が指に刺さって死にますが、これは女性の仕事を始めることで少女時代が終わることを表現しています。

また、入浴における癒しは、客にとっては一種の擬死再生に当たるため、「助産」のテーマともつながります。
「助産」は、成女イニシエーションの重要なテーマです。

また、油屋は食の提供も行いますので、異界(=自然=無意識)の豊穣性を示します。
「ヘンゼルとグレーテル」の森の小屋がお菓子でできていて、中に宝物があるのと同じです。
イニシエーションでは、この「豊穣性」を獲得することもテーマです。

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また、儀礼では、性の知識を獲得することもテーマです。
童話「眠り姫」の紡ぎ車の錘が刺さることも、性的比喩かもしれません。

油屋は、性的なサービスの提供も行っていることをほのめかしています。
油屋は神を相手にしていますが、従業員には、神と寝る巫女、一種の聖娼もいるのでしょう。
ですが、性教育を行わない現代の子供向けアニメでは、これが伏せられています。

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*襖の奥にいる二人は、神を相手に寝る従業員の巫女か?
 「回春」の文字もほのめかし。

また、千尋が訪れる湯婆婆の姉の銭婆の家には、糸紡ぎ機、箒といった女性の仕事の象徴となるものが置いてあります。
箒はヨーロッパでは出産の象徴でもあります。
千尋は銭婆からケーキを出されますが、これは「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子家と同じです。

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千尋は、油屋で、オクサレ様の接客を行い、ヘドロだらけになりながらも、河の神として再生させて、試練を果たします。
千尋は、オサクレ様に刺さったゴミを見つける「知恵」と、「利他心」を示しました。

その代わりに、河の神から、悪いものを吐き出させる薬的な呪物である「苦団子」をもらいました。
これは、千尋が獲得した能力の象徴です。
「苦団子」は、これを食べた千尋を、そして、千尋がこれを食べさせたハクとカオナシを助けることになります。

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*オクサレ様と苦団子


<飲み込み、生み出す太母>

儀礼では、少年・少女を「飲み込み(食べ)」、「吐き出す(生み出す)」怪物や熊が登場します。
童話では、これが、魔女や狼、クジラなどにもなります。

成女イニシエーションにおけるこれらの存在や、イニシエーションの主宰者である魔女的存在は、ユンクの元型で言えば「太母」に当たります。

「太母」は冥界(=無意識)の創造性であり、少女の意識や自我を「飲み込み」、成女として「生み出し」ます。
これは少女にとっては「擬死再生」であると共に、「出産」のテーマを含みます。

儀礼では、例えば、少女が大人の股下をくぐる行動をさせられます。
童話「赤ずきんちゃん」の狼は赤ずきんちゃんを飲み込み、猟師が狼の腹から取り出します。
この猟師の行為は、「助産」のテーマの名残です。


映画の、油屋の女主人である湯婆婆には、本来、一体である姉の銭婆がいます。
二人が一体で、成女イニシエーションの主宰者です。

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*湯婆婆と銭婆

湯婆婆は、千尋に成長の場を提供しますが、同時に、千尋やハクなどの働いている者を離さない存在です。
つまり、「飲み込む太母」です。
湯婆婆が赤ん坊の坊を愛しているのは、その象徴です。

それに対して、銭婆は、千尋を異界から日常世界に戻す助言をするので、「吐き出す(生み出す)太母」です。

「銭婆」という名前は、「銭」は社会で流通するものなので、社会性を示しているのでしょう。
また、「銭」は「払う」もので、これは湯婆婆の魔法を「祓う」に通じます。

銭婆の家は、油屋と電車でつながった「沼の底駅」にあります。
この電車には、影のような死者が乗っていて、彼らは途中の「沼原駅」で降ります。

銭婆の家は「死の世界」、湯婆婆の油屋は日常世界との「中間世界」として設定されているのでしょう。

千尋の名前の「尋」は水の深さの意味で、「千尋」という名前は、深い水の底まで行ける者を意味します。
銭婆のいる「沼の底」は水の底であり、千尋は、その死の世界まで行くことで、日常世界へと帰還するのです。

千尋は湯婆婆と雇用の「契約」をしましたが、この「契約」は、湯婆婆に「飲み込まれた」状態を表現します。

それに対して、銭婆は、「契約」を作り直すことができる「ハンコ(魔女の契約印)」を持っています。
銭婆は、契約とその解除を司る存在であり、死者と日常世界へ戻る者を判定する者なのでしょう。
つまり、イニシエーション通過の認定者です。

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ですが、千尋は、自分でそれにふさわしい者であることを示さなければいけません。


<自我と名前、カオナシ>

映画では、日常世界が「自我」を持つ世界であるのに対して、トンネルの向こうの異界(=無意識)は、「自我」のない世界です。
本名が「自我」の象徴とされ、本名を覚えていることが、日常世界に戻る条件とされます。

湯婆婆は、千尋の本名を奪い(ただし、千尋は湯婆婆との契約書に自分の名前の漢字を間違えて書いたので、根本的には奪われませんでした)、「千」という異界での名を与えます。
ですが、千尋はハクの助言で、本名を覚えています。

ハクも本名を奪われていますが、千尋がきっかけとなって思い出します。

伝統的なイニシエーションでは、幼名から大人名に変わる場合も多くあります。


千尋が出会って油屋に引き入れたカオナシは、カオがなく、言葉をうまく喋れず、自身の意志や目的を持たない存在です。
つまり、「自我」を持たない者、まともな大人になっていない者です。
イニシエーションの観点から見れば、イニシエーション通過の失敗者です。

そのため、油屋とは、偽の依存関係にあり、破壊者の関係にあります。

油屋をジブリに当てはめれば、カオナシは大人になりきれないジブリ・アニメのファンなのかもしれません。

千尋は、他の従業員のようにはカオナシを相手にしないという態度を取り、「苦団子」を食べさせて、暴走した彼を浄化します。
カオナシを救えるのは、イニシエーションからの帰還を司る銭婆なので、最後に、彼は彼女の元に留まります。

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<アニムス(内なる男性像)>

千尋が異界で出会う最重要人物は、ハクです。
千尋とハクは、助け合う関係です。

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表の設定では、ハクは、千尋が住んでいた家の近くを流れていたコハク川の神で、本名はヒギハヤミコハクヌシです。
千尋は、昔、「靴」を追いかけてこの川に落ちて、ハクに助けられましたが、二人ともそのことを忘れていました。

ですが、映画でほのめかされている裏設定では、千尋を助けて代わりに死んだ兄のようです。
この場合、他人のために自分の命を捨てる、他人の命によって自分が生かされている、というテーマになります。
これは、宮崎駿が「銀河鉄道の夜」の影響で取り入れたるテーマですが、成女イニシエーションのテーマにはありません。

成女イニシエーションの観点からは、ハクは獲得すべき「内なる男性像」に相当します。
童話では「王子様」、ユンクでは「アニムス」に当たります。
儀礼では、最終的に「結婚相手」になります。

童話では、この「内なる男性像」を「利他心」から助け、また、助けられます。
例えば、グレーテルはヘンゼルを魔女から助けます。
「白鳥の王子」では、主人公のエリーザが編み物をして白鳥になった兄を人間に戻します。
動物から人間に戻るテーマは、アニムスの誕生、意識化を意味します。

映画では、河の神の浄化、カオナシの浄化に続いて、ハクを助けることが最後の試練になります。
つまり、アニムスの獲得がイニシエーション通過の条件なのです。
アニムスは男性的な能力であるため、ハクもそれで千尋を助けます。


千尋は、白い龍がハクであることを直観によって見抜きます。
そして、死にそうになったハクに「苦団子」を食べさせます。
これによって、湯婆婆がハクを縛るために体の中に入れた黒い虫を追い出して殺し、同時に、「ハンコ」を盗んだものを苦しめる銭婆の魔法を解きます。

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そして、昔、コハク川でハクに助けられてことを思い出して、ハクが自分の名前を思い出すきっかけとなります。

つまり、アニムスの成長を促します。

ハクは、千尋に本名を忘れないように、仕事をして弱音を吐かないようにと助言しました。
また、湯婆婆に、息子の坊と千尋の自由を交換条件に出しました。
そして、銭婆のハンコを盗んだことが、結果的に千尋を銭婆のところに導きます。

ハクは、言葉や契約、つまり、男性的な事項で、千尋を助けます。


千尋は、死の世界にいる銭婆に「ハンコ」を返す行為で、死をいとわない「利他心」を見せます。

銭婆は、千尋に、「過去のハクと関係を思い出させ」というヒントを与えます。
これは、象徴的には、潜在的に存在するアニムスを意識化することです。

そして、銭婆は、千尋に「髪留め」を与えます。
これは、髪という自然なものに整える道具であり、秩序、言語、意識、そして、「自我」の象徴です。
それは、異界からの帰還の能力であり、アニムスに関係する能力であるとも言えます。

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<水と火による浄化・擬死再生>

儀礼では、少女を川の水に沈められて擬死再生を体験させるのが定番です。
「白鳥の王子」のエリーザは、湖で体を洗って美しい姿になりますが、これも一種の水による擬死再生です。

千尋がコハク川に沈んで死にそうになったことを思い出すのは、水による擬死再生の再体験です。

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油屋で河の神に湯の中から救われるのも、水による擬死再生です。

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また、千尋が、海原電鉄に乗って「沼の底」駅の銭婆のところに行って戻ることも、水による擬死再生です。

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*油屋前の海原電鉄と沼の底駅にある銭婆の家


イニシエーションでは、「火」による浄化や擬死再生というテーマも現れます。

儀礼では「火」を飛び越えることが定番です。
童話「ヘンデルとグレーテル」には魔女のカマ、「シンデレラ(灰かぶり姫)」には主人公の仕事場としてカマドが出てくるのは、その名残です。
古来、カマドは家の中心で、カマドの女神は、女性が祀るものでした。

映画では、千尋が油屋で最初に行く場所が、油屋の仕事を支える基底部であるボイラー室です。
これは「火」に関わる場所です。
ここを仕切っている釜爺は薬の調合もし、「スス」が正体のススワタリ達が石炭を運んでいます。

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千尋はここで特別な試練を受けませんが、やけどをしたり、その仕組を理解します。
そして、仕事に対する熱意を示して、釜爺に「わしの孫」とウソを言わせて、湯婆婆に取り継がせます。

湯婆婆の部屋にも、暖炉(古来からの火の女神の祭壇)があります。

「スス」は、灰かぶり姫(シンデレラ)の「灰」と同様、火の再生・不死性の象徴です。

ススワタリは、千尋の「靴」を預かりますが、「靴」は灰かぶり姫がなくしたものです。
また、千尋が昔、川で「靴」を流してハクに助けられたことが、油屋でハクに助けられて「靴」を脱いで働くことにつながっているのです。
「靴」は自由の象徴で、一旦、それをなくして「水」と「火」の再生の場所に入るのです。

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湯屋の外壁の色の赤、そして、千尋が着る服の赤は、「火」の象徴かもしれません。

「ハク=白=水」に対して、「千尋=赤=火」という対照性があると考えることもできます。
そうであるなら、ハクの名の「ニギハヤミ」に対して、千尋が神になるならその名は「ニギハヤヒ」でしょう。

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<飛翔と帰還>

銭婆が、千尋に「思い出す」というヒントと、「髪留め」を与えた後、というより、それによって、ハクの体調が直り、銭婆のところへ千尋を迎えに来ます。

そして、帰れなかったかもしれない銭婆の死の領域から、千尋は、白龍の姿になったハクに乗って「飛翔」して油屋に戻ります。

童話では、異界から日常世界に戻る際の魔女や怪物などからの「逃走」や「飛翔」がテーマとなります。
「飛翔」や「逃走」は、無意識につかまることを脱する力で、これは男性的な力、言語的な知恵の力と関係します。

自由に歩き、走るための道具である「靴」もこのテーマに関わります。
「靴」をなくすのは「灰かぶり姫(シンデレラ)」にも出てくるテーマで、これを取り戻すのはアニムスである王子様です。

映画では、千尋は、過去に「靴」を川に流して、ハクを失います。
それに対して、今度は、「龍」となったハクによって「飛翔」します。
「靴」は「龍」に進化しました。

この時、千尋は「コハク川」でハクに助けられた過去の記憶を思い出します。
これを聞いて、ハクは自分の名前を思い出し、同時に、龍から人間の姿になります。

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*白龍のハク、人間のハクとの飛翔

忘れた記憶の意識化は、無意識の意識化であり、死んだ記憶の再生です。
それは「飛翔」という、意識の自由とともにもたらされました。

水底からの帰還の途上で、水中から助けられた記憶が蘇り、これが日常世界への帰還に導きます。

その忘れさられていた記憶は、利他の記憶であり、新たな利他の行為の結果によってそれを取り戻しました。


油屋に戻った千尋に、湯婆婆が最後に出した課題は、多数の豚の中から両親を見つけるというものでした。

親を見分けることは、イニシエーションの目的である大人になったことを、つまり。イニシエーションに成功したことを示すことです。
これは、「人間」が答えである古いスフィンクスのクイズと同様のものです。

千尋はこれに合格し、日常世界に戻る許可を得ます。

ハクは千尋に、日常世界に戻る途中に「振り向かない」という助言をします。

トンネルを通って日常世界に戻った千尋は、異界での体験を忘れてしまいますが、彼女の頭には、大人の印であり、イニシエーション通過の印である「髪留め」が残っています。

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ハクは、千尋と分かれる時、元の世界に戻ったら千尋に会いに行くと約束します。
見たことがあるという多くの証言がある別ヴァージョンのラストでは、引っ越し先の近くの川で、千尋がハクを思い出し(再会し)ます。

ですが、実際の現実では、別人の恋人との出会いとして、約束は実現するでしょう。

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2021年01月28日

古事記における天孫族と国津神のイニシエーション


「古事記」の中から、天孫族と国津神に関わる2種類のイニシエーション神話を抽出して解釈します。


「天孫族のイニシエーション」は、成人段階のイニシエーションです。

それは、自我が無意識を制限する合理主義的な意識変容を表現していて、その代償を伴います。


一方、「国津神のイニシエーション」は、その延長線上にある成熟段階のイニシエーション、あるいは、自我中心的成長を否定する成人イニシエーションです。

それは、無意識の創造力を受容する神秘主義的な意識変容です。


ただ、ここで対象とするものは、あくまでも「古事記」から読み取れるもの、深読み的な解釈です。

実際の天孫族や国津神を奉じる氏族がそういったイニシエーション神話を持っていたということではありません。

また、必ずしも、「古事記」がそれを意識して編集、表現したということでもありません。



<古事記>


編年体で記された国の正式な史書である「日本書紀」に対して、「古事記」は紀伝体で記され、主に皇族内で所有する書であったようです。

そして、「古事記」は、稗田阿礼の誦習をベースにしているとされ、神話本来の謡われるもの(神語り)としての性質を保持しています。


ですが、「日本書紀」と「古事記」の神話は、天皇の統治を正当化する「天皇神話」として編集されている点は共通しています。

ですが、下記の点で、両者は異なります。


「古事記」では、天を「高天原」と呼ぶ、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を原初神とする、伊邪那美命(イザナミノミコト)が死ぬ、アマテラスは太陽神とは明記されない、大己貴尊(オオナムチノミコト)に大国主(オオクニヌシ)という名がある、天孫族の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が先に天下っている…などなどです。


ただ、おそらく、現在伝わっている「古事記(現・古事記)」は、815年に多人長によって編集されたもので、太安万侶が編纂したとする序文は人長がその時に偽作したのでしょう。

「日本書紀」にも「続日本紀」にも「古事記」の記載はありません。


人長は古語の研究者であり、「現・古事記」は、多氏が所有していた「原・古事記」を元にして、再編集し、古語を使用して書き直したのでしょう。

「高天原」、「天之御中主神」、「大国主」といった概念は、この時、人長が創作したのでしょう。



<天孫族のイニシエーション>


まず、「古事記」で、天孫族が大和・日本を支配するに至ったプロセスから、イニシエーション神話の要素を読み取って抽出します。


天孫降臨したのは邇邇芸命(以下ニニギ)ですが、その4代目が大和に東征し、その後の世代が徐々に支配地を広げていきます。

ですが、ニニギより先に地上に降りた天津神に、須佐之男命(以下スサノヲ)がいます。


スサノヲは八俣大蛇(以下ヤマタノオロチ)を退治し、大山津見神(以下オオヤマツミ)の孫の櫛名田比売(以下クシナダヒメ)と結婚します。

これは、治水・農耕神話でもありますが、典型的なアンドロメダ型のドラゴン退治神話でもあり、成人イニシエーション神話、自我獲得神話です。


ヤマタノオロチは制御されない無意識の力の象徴で、クシナダヒメは制御された無意識の力、創造力の象徴です。


スサノヲは、クシナダヒメを櫛の形にして頭髪に差し、垣を巡らした中に入り、酒樽を置いてヤマタノオロチを招き入れました。

これは、スサノヲが巫女となって神を招く姿に似ていて、オロチ退治を宗教儀式として行っています。

本来、ヤマタノオロチが神であり、オロチ退治が宗教戦争だったからでしょう。


ですが、心理的には、イニシエーションが変性意識状態での無意識を体験する儀礼として行われていることの表現にもなっています。


以下で解釈する「天孫族のイニシエーション」神話は、このスサノヲによる「天津神のイニシエーション」神話と同じ意味を持つ、つまり、アンドロメダ型神話ですが、それだけでは終わりません。



地上に降臨したニニギは、山の神のオオヤマツミの娘の木花之佐久夜毘売(以下コノハナサクヤビメ)と結婚しますが、姉の石長比売(以下イハナガヒメ)は醜かったために娶りませんでした。

姉妹は「山の霊力」を持っているのですが、コノハナサクヤビメは「豊穣力」を持ち、イハナガヒメは「不死性」を持っていました。


そのため、天下ったニニギは、地上の「山の霊力」を限定的に身に付けたのですが、その代わりに、死すべき人間となってしまったのです。


この神話は、死の発生の神話の一種ですが、天孫族に限定して適用ながら、自我獲得と共に、その代償を表現しています。


次に、その息子の火遠理命(以下ホヲリ、=山幸彦)は、失った海幸彦の釣針を探して海神の宮に行き、綿津見神(ワタツミノカミ)の娘の豊玉毘売(以下トヨタマビメ)と結婚し、潮を制御する潮満珠、潮干珠を得て、海幸彦を退けました。

ですが、ホヲリは、約束を違えて、トヨタマビメがワニに姿で息子の鵜葺草葺不合命(以下ウガヤフキアエズ)を生む姿を隠れ見てしまい、トヨタマビメは海路を塞いで海神の国に帰ってしまいました。


つまり、ホヲリは「海の霊力」を限定的に身に付けるも、その力の元とのつながりを失ったのです。


この神話は、異界と日常世界の分離の神話の一種ですが、アンドロメダ型の自我獲得と共に、その代償を表現しています。


そして、ウガヤフキアエズの子の神倭伊波礼毘古命(以下イハレビコ、=神武天皇)は、大和の地主神と言える大物主の娘と結婚し、東征しました。

つまり、大和の「地の霊力」を身に着け、大和を統治したのです。


神武天皇の神話には、代償は見られません。

ですが、その子孫で、同じ「倭」の名を持つ倭建御子(以下ヤマトタケル)に現れます。


ヤマトタケルは、三重に軍勢が囲んだ室の中で、叔母の着物を借りて櫛をつけた女性の姿で、酒を飲む熊曾建(クマソタケル)を倒しました。

この姿は、スサノヲがヤマタノオロチを倒した時とそっくりで、巫女が神を招く姿に似ています。

その後、ヤマトタケルは尾張の国で美夜受比売(以下ミヤズヒメ)と結ばれました。


この時点では、ヤマトタケルはアンドロメダ型の成人をなしたように見えます。


ところが、ヤマトタケルがミヤズヒメと結ばれたのは、彼女が月経中でした。

そして、叔母から渡された草薙の剣をミヤズヒメの元に置いて、素手で伊吹山の神を倒しに行きました。

ですが、伊吹山の神が白い猪の姿で現れたのを、それがただの使者だと間違えて言挙げした(言葉で宣言した)ため、その後に伊吹山の神に打ち惑わされ、病で亡くなりました。


月経中のミヤズヒメは、すでに地主神とのつながりがあったことを意味するのかもしれません。

伊吹山の神の姿を見誤ったことも含めて、彼には神的なものに対する知恵が足りなかったことを意味します。


また、草薙の剣はスサノヲがヤマタノオロチの尾から得たものであり、ヤマトタケルには叔母から手渡されたものであり、獲得すべき「地の霊力」、「女性の霊力」に関わります。

ですが、ヤマトタケルはそれを女性の元に戻してしまったのです。


世界的に、アンドロメダ型の「成人神話」では剣によってドラゴンを切り殺しますが、次の段階の「成熟神話」では武器をもたずに素手で戦って相手を殺さない、というパタンがあります。

ヤマトタケルは「成熟」に失敗したのだとも解釈できます。


このように、この神話は解釈が難しいですが、アンドロメダ型成人の代償、あるいは、その乗り越えの失敗を表現しています。


このように、天孫族は、イニシエーションによって、山、海、地の霊力を限定的に身に付けて統治をしますが、同時に、その度に失うものもあります。

つまり、「天孫族のイニシエーション」は、完全性には到達できないのです。



<国津神のイニシエーション>


次に、国津神に関わるイニシエーション神話を解釈します。

これは、古代から国津神を奉じる側の理想とした意識構造が反映しているはずです。


対比的にまとめるなら、「天孫族のイニシエーション」は、自我専制型、合理統制型の成人イニシエーションです。

この型のイニシエーションによる自我獲得は、無意識的な創造性を失わせるものです。


それに対して、「国津神のイニシエーション」は、自我超越、霊的統合型の成熟段階イニシエーション、ないしは、非自我中心型の成人イニシエーションです。

この成熟的な自己獲得は、女性的な聖物などに象徴される無意識的な創造性・知恵の獲得を伴います。


「国津神のイニシエーション神話」は、大穴牟遅神(以下オオナムヂ、=大国主(以下オオクニヌシ))の神話に読み取れます。

国作りの神話ではなく、その前の、根の国での試練を中心とした一連の成長の神話です。

ちなみに、この神話は「日本書紀」にも「出雲風土記」にもありません。


オオクニヌシのイニシエーション神話は、アンドロメダ型のドラゴン退治神話ではありません。

オオナムヂの神話の前に、その父であるスサノヲのオロチ退治の神話があり、因幡の白兎の神話があります。

この流れで解釈すると、この神話は、「成人神話」ではなく、「成熟神話」としての姿が見えてきます。


スサノヲによるヤマタノヲロチ退治の神話は、先に書いたように、典型的なアンドロメダ型成人神話です。

これは「天孫族のイニシエーション」と本質的に同じですが、その代償は語られません。


ですが、続いて語られる因幡の白兎の神話には、代償が語られます。


一般に、因幡の白兎の神話は、医療の神としてのオオクニヌシを表現する神話とされます。

ですが、スサノヲ的なアンドロメダ型成人の代償を示し、そのオオクニヌシによる克服へと橋渡しするテーマを読み取ることができます。


白兎はワニを騙したことで裸にされたのですが、このことは自我が自分自身を騙して、理性によって無意識を抑圧し、無意識の反撃によって傷つくこと、創造性を失うことを意味します。


つまり、スサノヲが自我獲得を、因幡の白兎がその代償を表現し、スサノヲの息子のオオナムヂがそれを癒し、乗り越える、という一連の流れを読み取ることができます。


ちなみに、兎は「月」をも象徴します。

白兎は「月」の光の面、ワニは月の暗い面の象徴です。

そして、白兎がワニの上を渡りながら数を数えることは、「月」の満ち欠けを数えること(月読、暦)を意味します。

白兎がワニによって裸にされるのは、「月」が光を失って新月になったことを、オオナムヂによって治療されることは、「月」がまた満ちることを意味します。


古代においては、「月」は生命力の再生の象徴としてきわめて重要な存在でした。

ですから、アンドロメダ型成人による自我の獲得は、生命力を枯渇させるものであり、オオナムヂはそれを再生させる存在であること(になること)が暗示されています。



<オオナムヂのイニシエーション神話>


オオナムヂは、八十神(以下ヤソガミ)という兄達と、因幡の八上比売(以下ヤガミヒメ)の獲得を争っています。


ヤソガミは白兎に間違った治療法を教えますが、末弟のオオナムヂが正しい治療法を教えます。

これは、オオナムヂの行く末を暗示します。


末弟が成功する主人公であるというのは、世界的に童話のパタンです。

末弟は、兄が象徴する社会的自我から最も遠い存在であり、それを乗り越えることを目指す存在を示します。


次に、ヤソガミが赤い猪を捕まえろと騙して、赤く焼けた石を転がり落してオオナムヂを焼き殺します。

ですが、赤貝とハマグリの女神の薬で、オオナムヂは蘇生しました。


自我を超えるイニシエーションでは、主体的な行動ではなく、受動的になって無意識的なもの、女性的なものに援助されることが重要です。


貝の女神は、出産力、生産力などを持つ母性的な霊性の象徴です。


次に、ヤソガミは、オオナムヂを木の間に挟んで殺しましたが、母が蘇生させました。

女性の援助による再生の繰り返しですが、植物の再生力がここに加わります。


また、「木(意識)」は「根(無意識)」につながります。

そして、「木」と「根」は、「紀の国」と「根の国」に掛かっていて、次の展開につながります。


母はオオナムヂを「紀の国」に逃がすと、さらに、「紀の国」の神は、木の股からスサノヲのいる「根の国」に逃がしました。


スサノヲは「冥界の祖神」となっていて、オオナムヂ神話においては、イニシエーションを促す存在です。


オオナムヂは、根の国でスサノヲの娘の須勢理毘売命(以下スセリビメ)と結ばれましたが、そのためにスサノヲから試練を受けます。


まず、蛇のいる部屋、ムカデとハチのいる部屋に入れられますが、スセリビメから蛇、ムカデ、ハチを追い払う比礼をもらって、無事に部屋から出ました。

蛇やムシは否定的な無意識のコンプレックスの象徴であり、ここでも女性の霊力の援助を受けて、それらを克服する力を身につけました。


次に、スサノヲは矢を野に射て、オオナムヂに取りに行かせ、火を放ちます。

オオナムヂは、ネズミに教えられた穴に入って無事に生還します。

ネズミは無意識の知恵、創造的なインスピレーションを象徴します。



次に、スサノヲの頭髪からシラミを取るように言われますが、実際にはムカデがいました。

オオナムヂは、スセリビメの知恵で、ムカデを取ったように見せかけて、この課題を切り抜けました。

ここでも女性の知恵(無意識の知恵)の援助を受けました。


本来、シラミを取ることは、シャーマンが動物の主を助けて創造性を復活させる神話のテーマです。


オオナムヂは、スサノヲの宝物である生太刀、生弓矢、天の詔琴を奪って地上に戻りました。

琴は巫女が神懸りになるための楽器であり、無意識とのコミュニケーションの道具です。


そして、オオナムヂは、この生太刀と生弓矢でヤソガミを追い退けて、ヤガミヒメと結婚しました。

ヤガミヒメは子を産みますが、スセリビメを恐れて、子を木の股に挟んで去りました。


ヤガミヒメは、意識的な領域における創造性の象徴、スセリヒメは無意識的な領域における創造性の象徴です。

子は具体的な創造物の象徴で、木の股に挟むのは、それに無意識的な実質を付与することを意味します。

このような、宝物の再獲得のテーマはおとぎ話にも良くあります。


以上のように、ヤマタノオロチを殺したスサノヲと違って、オオナムヂはヤソガミもスサノヲも殺しません。

否定ではなく、受容をテーマとしているからです。

そして、何度も死と再生を繰り返して、女性の霊性、つまり、無意識的な創造力、知恵を獲得する形で意識を変容させました。


この一連のイニシエーションは、無意識の創造性を限定するアンドロメダ型成人イニシエーションを否定し、乗り越えるイニシエーションを表現しています。



posted by morfo at 10:04| Comment(0) | 成人と成熟の神話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする