「古事記」の中から、天孫族と国津神に関わる2種類のイニシエーション神話を抽出して解釈します。
「天孫族のイニシエーション」は、成人段階のイニシエーションです。
それは、自我が無意識を制限する合理主義的な意識変容を表現していて、その代償を伴います。
一方、「国津神のイニシエーション」は、その延長線上にある成熟段階のイニシエーション、あるいは、自我中心的成長を否定する成人イニシエーションです。
それは、無意識の創造力を受容する神秘主義的な意識変容です。
ただ、ここで対象とするものは、あくまでも「古事記」から読み取れるもの、深読み的な解釈です。
実際の天孫族や国津神を奉じる氏族がそういったイニシエーション神話を持っていたということではありません。
また、必ずしも、「古事記」がそれを意識して編集、表現したということでもありません。
<古事記>
編年体で記された国の正式な史書である「日本書紀」に対して、「古事記」は紀伝体で記され、主に皇族内で所有する書であったようです。
そして、「古事記」は、稗田阿礼の誦習をベースにしているとされ、神話本来の謡われるもの(神語り)としての性質を保持しています。
ですが、「日本書紀」と「古事記」の神話は、天皇の統治を正当化する「天皇神話」として編集されている点は共通しています。
ですが、下記の点で、両者は異なります。
「古事記」では、天を「高天原」と呼ぶ、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を原初神とする、伊邪那美命(イザナミノミコト)が死ぬ、アマテラスは太陽神とは明記されない、大己貴尊(オオナムチノミコト)に大国主(オオクニヌシ)という名がある、天孫族の饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が先に天下っている…などなどです。
ただ、おそらく、現在伝わっている「古事記(現・古事記)」は、815年に多人長によって編集されたもので、太安万侶が編纂したとする序文は人長がその時に偽作したのでしょう。
「日本書紀」にも「続日本紀」にも「古事記」の記載はありません。
人長は古語の研究者であり、「現・古事記」は、多氏が所有していた「原・古事記」を元にして、再編集し、古語を使用して書き直したのでしょう。
「高天原」、「天之御中主神」、「大国主」といった概念は、この時、人長が創作したのでしょう。
<天孫族のイニシエーション>
まず、「古事記」で、天孫族が大和・日本を支配するに至ったプロセスから、イニシエーション神話の要素を読み取って抽出します。
天孫降臨したのは邇邇芸命(以下ニニギ)ですが、その4代目が大和に東征し、その後の世代が徐々に支配地を広げていきます。
ですが、ニニギより先に地上に降りた天津神に、須佐之男命(以下スサノヲ)がいます。
スサノヲは八俣大蛇(以下ヤマタノオロチ)を退治し、大山津見神(以下オオヤマツミ)の孫の櫛名田比売(以下クシナダヒメ)と結婚します。
これは、治水・農耕神話でもありますが、典型的なアンドロメダ型のドラゴン退治神話でもあり、成人イニシエーション神話、自我獲得神話です。
ヤマタノオロチは制御されない無意識の力の象徴で、クシナダヒメは制御された無意識の力、創造力の象徴です。
スサノヲは、クシナダヒメを櫛の形にして頭髪に差し、垣を巡らした中に入り、酒樽を置いてヤマタノオロチを招き入れました。
これは、スサノヲが巫女となって神を招く姿に似ていて、オロチ退治を宗教儀式として行っています。
本来、ヤマタノオロチが神であり、オロチ退治が宗教戦争だったからでしょう。
ですが、心理的には、イニシエーションが変性意識状態での無意識を体験する儀礼として行われていることの表現にもなっています。
以下で解釈する「天孫族のイニシエーション」神話は、このスサノヲによる「天津神のイニシエーション」神話と同じ意味を持つ、つまり、アンドロメダ型神話ですが、それだけでは終わりません。
地上に降臨したニニギは、山の神のオオヤマツミの娘の木花之佐久夜毘売(以下コノハナサクヤビメ)と結婚しますが、姉の石長比売(以下イハナガヒメ)は醜かったために娶りませんでした。
姉妹は「山の霊力」を持っているのですが、コノハナサクヤビメは「豊穣力」を持ち、イハナガヒメは「不死性」を持っていました。
そのため、天下ったニニギは、地上の「山の霊力」を限定的に身に付けたのですが、その代わりに、死すべき人間となってしまったのです。
この神話は、死の発生の神話の一種ですが、天孫族に限定して適用ながら、自我獲得と共に、その代償を表現しています。
次に、その息子の火遠理命(以下ホヲリ、=山幸彦)は、失った海幸彦の釣針を探して海神の宮に行き、綿津見神(ワタツミノカミ)の娘の豊玉毘売(以下トヨタマビメ)と結婚し、潮を制御する潮満珠、潮干珠を得て、海幸彦を退けました。
ですが、ホヲリは、約束を違えて、トヨタマビメがワニに姿で息子の鵜葺草葺不合命(以下ウガヤフキアエズ)を生む姿を隠れ見てしまい、トヨタマビメは海路を塞いで海神の国に帰ってしまいました。
つまり、ホヲリは「海の霊力」を限定的に身に付けるも、その力の元とのつながりを失ったのです。
この神話は、異界と日常世界の分離の神話の一種ですが、アンドロメダ型の自我獲得と共に、その代償を表現しています。
そして、ウガヤフキアエズの子の神倭伊波礼毘古命(以下イハレビコ、=神武天皇)は、大和の地主神と言える大物主の娘と結婚し、東征しました。
つまり、大和の「地の霊力」を身に着け、大和を統治したのです。
神武天皇の神話には、代償は見られません。
ですが、その子孫で、同じ「倭」の名を持つ倭建御子(以下ヤマトタケル)に現れます。
ヤマトタケルは、三重に軍勢が囲んだ室の中で、叔母の着物を借りて櫛をつけた女性の姿で、酒を飲む熊曾建(クマソタケル)を倒しました。
この姿は、スサノヲがヤマタノオロチを倒した時とそっくりで、巫女が神を招く姿に似ています。
その後、ヤマトタケルは尾張の国で美夜受比売(以下ミヤズヒメ)と結ばれました。
この時点では、ヤマトタケルはアンドロメダ型の成人をなしたように見えます。
ところが、ヤマトタケルがミヤズヒメと結ばれたのは、彼女が月経中でした。
そして、叔母から渡された草薙の剣をミヤズヒメの元に置いて、素手で伊吹山の神を倒しに行きました。
ですが、伊吹山の神が白い猪の姿で現れたのを、それがただの使者だと間違えて言挙げした(言葉で宣言した)ため、その後に伊吹山の神に打ち惑わされ、病で亡くなりました。
月経中のミヤズヒメは、すでに地主神とのつながりがあったことを意味するのかもしれません。
伊吹山の神の姿を見誤ったことも含めて、彼には神的なものに対する知恵が足りなかったことを意味します。
また、草薙の剣はスサノヲがヤマタノオロチの尾から得たものであり、ヤマトタケルには叔母から手渡されたものであり、獲得すべき「地の霊力」、「女性の霊力」に関わります。
ですが、ヤマトタケルはそれを女性の元に戻してしまったのです。
世界的に、アンドロメダ型の「成人神話」では剣によってドラゴンを切り殺しますが、次の段階の「成熟神話」では武器をもたずに素手で戦って相手を殺さない、というパタンがあります。
ヤマトタケルは「成熟」に失敗したのだとも解釈できます。
このように、この神話は解釈が難しいですが、アンドロメダ型成人の代償、あるいは、その乗り越えの失敗を表現しています。
このように、天孫族は、イニシエーションによって、山、海、地の霊力を限定的に身に付けて統治をしますが、同時に、その度に失うものもあります。
つまり、「天孫族のイニシエーション」は、完全性には到達できないのです。
<国津神のイニシエーション>
次に、国津神に関わるイニシエーション神話を解釈します。
これは、古代から国津神を奉じる側の理想とした意識構造が反映しているはずです。
対比的にまとめるなら、「天孫族のイニシエーション」は、自我専制型、合理統制型の成人イニシエーションです。
この型のイニシエーションによる自我獲得は、無意識的な創造性を失わせるものです。
それに対して、「国津神のイニシエーション」は、自我超越、霊的統合型の成熟段階イニシエーション、ないしは、非自我中心型の成人イニシエーションです。
この成熟的な自己獲得は、女性的な聖物などに象徴される無意識的な創造性・知恵の獲得を伴います。
「国津神のイニシエーション神話」は、大穴牟遅神(以下オオナムヂ、=大国主(以下オオクニヌシ))の神話に読み取れます。
国作りの神話ではなく、その前の、根の国での試練を中心とした一連の成長の神話です。
ちなみに、この神話は「日本書紀」にも「出雲風土記」にもありません。
オオクニヌシのイニシエーション神話は、アンドロメダ型のドラゴン退治神話ではありません。
オオナムヂの神話の前に、その父であるスサノヲのオロチ退治の神話があり、因幡の白兎の神話があります。
この流れで解釈すると、この神話は、「成人神話」ではなく、「成熟神話」としての姿が見えてきます。
スサノヲによるヤマタノヲロチ退治の神話は、先に書いたように、典型的なアンドロメダ型成人神話です。
これは「天孫族のイニシエーション」と本質的に同じですが、その代償は語られません。
ですが、続いて語られる因幡の白兎の神話には、代償が語られます。
一般に、因幡の白兎の神話は、医療の神としてのオオクニヌシを表現する神話とされます。
ですが、スサノヲ的なアンドロメダ型成人の代償を示し、そのオオクニヌシによる克服へと橋渡しするテーマを読み取ることができます。
白兎はワニを騙したことで裸にされたのですが、このことは自我が自分自身を騙して、理性によって無意識を抑圧し、無意識の反撃によって傷つくこと、創造性を失うことを意味します。
つまり、スサノヲが自我獲得を、因幡の白兎がその代償を表現し、スサノヲの息子のオオナムヂがそれを癒し、乗り越える、という一連の流れを読み取ることができます。
ちなみに、兎は「月」をも象徴します。
白兎は「月」の光の面、ワニは月の暗い面の象徴です。
そして、白兎がワニの上を渡りながら数を数えることは、「月」の満ち欠けを数えること(月読、暦)を意味します。
白兎がワニによって裸にされるのは、「月」が光を失って新月になったことを、オオナムヂによって治療されることは、「月」がまた満ちることを意味します。
古代においては、「月」は生命力の再生の象徴としてきわめて重要な存在でした。
ですから、アンドロメダ型成人による自我の獲得は、生命力を枯渇させるものであり、オオナムヂはそれを再生させる存在であること(になること)が暗示されています。
<オオナムヂのイニシエーション神話>
オオナムヂは、八十神(以下ヤソガミ)という兄達と、因幡の八上比売(以下ヤガミヒメ)の獲得を争っています。
ヤソガミは白兎に間違った治療法を教えますが、末弟のオオナムヂが正しい治療法を教えます。
これは、オオナムヂの行く末を暗示します。
末弟が成功する主人公であるというのは、世界的に童話のパタンです。
末弟は、兄が象徴する社会的自我から最も遠い存在であり、それを乗り越えることを目指す存在を示します。
次に、ヤソガミが赤い猪を捕まえろと騙して、赤く焼けた石を転がり落してオオナムヂを焼き殺します。
ですが、赤貝とハマグリの女神の薬で、オオナムヂは蘇生しました。
自我を超えるイニシエーションでは、主体的な行動ではなく、受動的になって無意識的なもの、女性的なものに援助されることが重要です。
貝の女神は、出産力、生産力などを持つ母性的な霊性の象徴です。
次に、ヤソガミは、オオナムヂを木の間に挟んで殺しましたが、母が蘇生させました。
女性の援助による再生の繰り返しですが、植物の再生力がここに加わります。
また、「木(意識)」は「根(無意識)」につながります。
そして、「木」と「根」は、「紀の国」と「根の国」に掛かっていて、次の展開につながります。
母はオオナムヂを「紀の国」に逃がすと、さらに、「紀の国」の神は、木の股からスサノヲのいる「根の国」に逃がしました。
スサノヲは「冥界の祖神」となっていて、オオナムヂ神話においては、イニシエーションを促す存在です。
オオナムヂは、根の国でスサノヲの娘の須勢理毘売命(以下スセリビメ)と結ばれましたが、そのためにスサノヲから試練を受けます。
まず、蛇のいる部屋、ムカデとハチのいる部屋に入れられますが、スセリビメから蛇、ムカデ、ハチを追い払う比礼をもらって、無事に部屋から出ました。
蛇やムシは否定的な無意識のコンプレックスの象徴であり、ここでも女性の霊力の援助を受けて、それらを克服する力を身につけました。
次に、スサノヲは矢を野に射て、オオナムヂに取りに行かせ、火を放ちます。
オオナムヂは、ネズミに教えられた穴に入って無事に生還します。
ネズミは無意識の知恵、創造的なインスピレーションを象徴します。
次に、スサノヲの頭髪からシラミを取るように言われますが、実際にはムカデがいました。
オオナムヂは、スセリビメの知恵で、ムカデを取ったように見せかけて、この課題を切り抜けました。
ここでも女性の知恵(無意識の知恵)の援助を受けました。
本来、シラミを取ることは、シャーマンが動物の主を助けて創造性を復活させる神話のテーマです。
オオナムヂは、スサノヲの宝物である生太刀、生弓矢、天の詔琴を奪って地上に戻りました。
琴は巫女が神懸りになるための楽器であり、無意識とのコミュニケーションの道具です。
そして、オオナムヂは、この生太刀と生弓矢でヤソガミを追い退けて、ヤガミヒメと結婚しました。
ヤガミヒメは子を産みますが、スセリビメを恐れて、子を木の股に挟んで去りました。
ヤガミヒメは、意識的な領域における創造性の象徴、スセリヒメは無意識的な領域における創造性の象徴です。
子は具体的な創造物の象徴で、木の股に挟むのは、それに無意識的な実質を付与することを意味します。
このような、宝物の再獲得のテーマはおとぎ話にも良くあります。
以上のように、ヤマタノオロチを殺したスサノヲと違って、オオナムヂはヤソガミもスサノヲも殺しません。
否定ではなく、受容をテーマとしているからです。
そして、何度も死と再生を繰り返して、女性の霊性、つまり、無意識的な創造力、知恵を獲得する形で意識を変容させました。
この一連のイニシエーションは、無意識の創造性を限定するアンドロメダ型成人イニシエーションを否定し、乗り越えるイニシエーションを表現しています。